突然ですが、スマホを自宅に忘れて外出してしまったりすると、あれができない、これができないという事になり、途方に暮れてしまいます。
今日の様に携帯電話やスマホが生活に深く浸透してしまうと、あるのが当たり前の行動パターンに慣れ切ってしまい、ないと通常の活動に支障をきたしてしまいます。
スケジュール確認やネット検索など欠かせないことはいくつかありますが、一番困るのは電話やメール、メッセージ機能を使ったコミュニケーションです。
スマホが手元にないと気付いた時、何か別に同じ様なコミュニケーション手段がないかと探すのですが、超能力者のテレパシー以外考えつきません。
外出時の移動中に、またよそで移動中の相手と話ができるというのは画期的な発明だったと、その時改めて気付かされます。
スマホ以前は公衆電話という方法もありましたが、現在はその数も極端に減り、簡単には見つからなくなりました。
見つかっても、小銭やテレフォンカードを用意しなければならず、そもそも電話番号もスマホに登録してあるので、電話をかけたい先の番号が分からなかったりします。
また公衆電話が見つかっても、携帯電話やスマホを持たない移動中の相手に電話をかけることはできません。
時間を知るために、日時計や定期的にならされる鐘の音を聞くという原始的な方法から、時計が公衆設置型に進み、やがて屋内置き型へ、そして懐中時計から現在の腕時計に。
また、目の焦点を合わせるのに、虫メガネのようなものから手持ちのメガネ、眼底にはめ込む片眼鏡、鼻の上にのせるメガネから現在の耳にかけるタイプやコンタクトが普及しました。
どちらも必要に応じ、ウェアラブルに進化した訳です。
今後、スマホの発展がこれら腕時計やメガネの進化と融合するのか、それとも何かもっとほかに便利なウェアラブル機器が開発されてくるのか、まだ分からないところです。
世の中はネット社会になり、そこでは義手や義足など体のパーツが高度に機械化されていて、中には脳以外はすべて機械と言うサイボーグ化した人達が登場します。
物語ではそのサイボーグ化した警察官の一チームが事件を解決していくのですが、サイボーグと言っても目から光線が出たり、足からのジェット噴射で空を飛んだりする訳ではありません。
SFではありながら、その主人公たちの活動が非現実的になり過ぎない設定を保つ作者のバランス感覚が、ストーリーを追う上で魅力のひとつになっています。
また、取り扱うテーマも薬害だったり、戦争や核、人口問題や高齢化だったりと実社会に似せて、とても面白いのです。
彼らの機械化は運動機能だけでなく、脳の一部にもおよび、外部とのインターフェースを持つようになります。
物語の中ではそれを電脳化と呼び、頭の中の記憶を外部に出力できたり、脳が直接ネットにアクセスできるので、電脳化した人達は黙って口を閉じたままでもコミュニケーションができるのです。
登場人物が口を動かさず、無表情のままで会議をする場面がよくあり、初めてそのアニメのそこだけを見た人は少し異様に思うかも知れません。
さて、我々の現実世界では、ここ何十年かの間にスマホと電脳化の間のどこかに落ち着いて行くのではないかと思うのです。
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